KUMIKO便り

KUMIKOの番人が日々を綴ります

KUMIKO便り

KUMIKOの番人が日々を綴ります
2011年05月18日

KUMIKO便り 2011.5.18

GWも無事終わり、八十八夜、そして立夏と、季節は確実に夏へと移りつつあります。
皆様どんなGWを過ごされましたか?
KUMIKOは4/29~5/1、5/3~5、7・8と開けました。

この間、巷では放射能の被爆について色々言われている中、東京や宮城、そして県内からご多数来場頂きました。皆様本当にありがとうございました。

その内、中越地震の折にも現地に視察に入った建築家さんが、被災建物を見たいとの事で、須賀川は加治町~中町~八幡町と中心市街地の道路の陥没や、崩壊建物が多い所を案内しました。

その辺りは室町時代、1448年より9代続いた二階堂氏の須賀川城が構えられていた場所です。(須賀川市教育委員会編纂資料より)
1589年に伊達政宗に攻められて落城の後、内濠が埋められ、仲宿や牛袋といった近隣の町人達が移住させられて、町人町になりました。

以来、鉄道が通る以前まで奥州屈指の宿場町として栄えた史実を知れば、蔵が多いのが頷ける一帯です。
時代が下ってからは釈迦堂川や阿武隈川の水運を生かしたタバコの一大集散地でもあったようです。

それらの蔵の被害が甚大で、何百年と町の風景を形作ってきたものが取り壊され、跡が更地になって、辛い光景を作り出しています。
宿場町として人馬が行き交って400年以上の時間の経過があるにも関らず、埋立地はやはり柔らかいのですね。
埋め戻された濠に沿って、陥没し、道路が、家が、蔵がぐちゃぐちゃになっています。
歴史はきちんと把握しておかなくてはならないね、との建築家の言葉が心に残りました。

本丸跡は二階堂神社としてお社が建っており、秋の松明あかしのお祭りでは神社から御神火を奉受します。
巨大な欅に挟まれて残っている神社の石垣はそう古くはないのですが、欅の荘厳さに、その前を通る度に深々と頭を下げたくなる不思議なパワーを感じていました。
今回、その石垣が見事に崩れていました。

蔵は、確かに現在の暮らしには必要不可欠ではないものの、町の財産です。
それが次々と重機で壊されて無くなっていく様を見るとなんともいえない気持ちになります。
土蔵や石垣がこれからどのようになっていくのか、希望の持てる修復への道を選択して欲しいと願わずにはいられません。

KUMIKO見学のの翌日は宮城、岩手と被災地を視察に行った建築家達は、地震+津波の惨状を目の当たりにしてもっと心を痛めたことでしょう。
しかし、福島は違う意味で深い傷を負っています。
何時終息するかわからない原発と放射能に加え、風評被害。これが一番怖いです。
でも、今私は『広島も原爆を落とされても、それでも10年で復興した、だから、大丈夫!応援してるよ』という広島の人の言葉に一縷の希望を見出したい。

写真はGW中のKUMIKOの回りの花達です。花桃がGW中咲き誇り、
初夏を告げる山吹の花が薫風の中揺れていました。

では、皆様元気出していきましょう。今週も良い1週間を!