KUMIKO便り

KUMIKOの番人が日々を綴ります

KUMIKO便り

KUMIKOの番人が日々を綴ります
2016年03月12日

5年目を迎えて

5年前の3月12日も番人はKUMIKOにいました。

あの日、KUMIKOから見えた磐梯山です。
これほどクッキリと見ることができる日は1年にそう何度も無いのに、青空を背に真っ白の山頂が本当に美しかったのがとても印象に残っています。

5年前の3月11日は今年と同じ金曜日でしたから、12日は土曜日で、KUMIKOにいるのは当然だったのですが、あの時ここには平常があったから居られたのです。

物が落ちているわけでもなく、ヒビが入っているわけでもなく、傾いているわけでもなく、いつもよりきれいに山脈みが見えるだけ。
不思議な静けさでKUMIKOはここにありました。

震度6強で揺れた須賀川は道路が陥没し、家の壁が落ち、屋根瓦が崩れ、建物そのものが道路に崩れ落ちた場所がいくつもありました。
学校も市役所も使用不可能となっていました。
だから、KUMIKOの平常さが非日常の世界のように感じました。

あの日、地面が大きく揺れ続けるうちに、まるで魔女が出現する時のように黒雲が天を多い、雪が渦を巻くように横殴りに降りかかってきた光景は今も忘れられません。
建築工房では本や資料が棚からごっそり落ちて、水も止まってしまっていました。

自宅への帰り道は道路が割れ、寸断されて、走れるところを走ってやっとの思いで帰り着いたものです。
我が家は家具が動き屋根瓦が崩れていました。
なのに、次の日KUMIKOに来てみると何事も無かったかのように静かに佇んでいたのです。
この時の心の底からホッとした気持ちも忘れられません。

揺れよりも怖かったのが放射能でした。
地震はいつか収まるけれど、原発は収まらないだろう。
どうなるのか、どうしたら良いのか。
逃げたってどうやって食べていくの?逃げるってどこへ?
誰も答えを出せない事態に、不安だけが広がっていきました。
家族が2人、入退院を繰り返していた頃でした。

あの時、沢山の電話やメール、便りに励まされましたが、中でも5年経った今でも手帳に挟んだまま大切にしている1通があります。
同窓会からの安否を気遣う葉書です。

前略ごめん下さいませ。
この度の大地震による厳しい状況下で、皆様初めご家族様には、ご無事でおいででしょうか。
同窓会には全国・海外の会員からも皆様のご消息を案じる問合わせが殺到しております。
心からお見舞いを申し上げます。
同窓会は直ちに義援金募集を開始致し、一刻も早く皆様が、健やかで平穏なご生活に戻られます様、お力になりたいと願っております。
ご要望がありましたら是非本部までお申し出下さい。
簡易ではございますが、お葉書で取り敢えずお見舞い申し上げる次第でございます。
寒さ殊の外厳しく、ご体調が一層案じられます。
どうぞ呉々もお大切になさいます様、同送会一同衷心よりお祈り申し上げております。

文字だけびっしりと綴られた葉書から兎に角何かしなくては、という緊迫した思いが伝わってきました。

後で恩師から高層棟の校舎が長周期地震動で相当揺れたと聞きましたが、東京も地震の影響が少なからずあったにも関わらず、震災後間髪入れず葉書を作り、宛名を書き、東北の卒業生在校生全てに郵送するにはどれほどのパワーが必要だったかと今でもその行動の早さと思いに胸が熱くなります。
たった1通の葉書にどれほど慰められたことか。

そして、今月の同窓会報には東日本大地震から5年と題した記事が載っていました。
副題に『私たちにできることをやろう、これからも』とあり、被災者に寄り添ってきた活動の報告が書かれています。
文末に「私たちは、常に支援者の立場であり続ける必要がある。」と結ばれています。
こんな活動もあるのです。

日に日にあたたかさが増して参りました。
木の芽時は体調を崩しやすい時でもあります。
くれぐれもご自愛ください。

ではまた次回。
ごきげんよろしゅう。

福島の木の家KUMIKO番人より